2023年のおすすめ本

2023年に読んだ本の中で、特に良かったものを紹介します。紹介順は適当です。

  • 今井むつみ・秋田喜美(2023)『言語の本質』

本書は、「言語とは何か」という根本的な問いについて、オノマトペアブダクションを手がかりに、さまざまな観点から考察を試みた一冊である。「人工知能が記号を処理するときに言葉の意味を本当に理解していると言えるのか」という、いわゆる記号接地問題をめぐって、著者たちは言語習得における「ブートストラッピング・サイクル」という解決策を示しており、非常に刺激的である。個人的には、言語能力に関してヒトという種とその他の動物種を分ける指標が、対称性推論(前提と結論をひっくり返す推論)をしようとする思考のバイアスにあるという経験的な論点が非常に興味深かった(私自身は、対称性推論への傾向性が、バイアスというよりもハビットだと言いたいところだが)。帰納推論やアブダクションが言語習得において果たす役割については以前から関心を持っていたので、これを機に色々と関連する文献を読んでみようと思った次第である。

  • 中山元(2023)『労働の思想史』

本書は、労働をめぐる西洋の思想史を古代から現代まで丁寧にたどった一冊である。なぜ働くのか、労働とは何かという問いについて考えるためのヒントが、思想史のレンズを通して鮮やかに散りばめられている。全体としてコンパクトにまとまっているが、教科書的な記述に物足りなさを感じる人もいるかもしれない。とはいえ、労働をめぐる思想家の見解の一致や相違を概観するのに便利な一冊であることに変わりはない。本書で紹介された思想家の労働観に興味を持ったら、原典にあたってみると理解が深まるかもしれない。

  • アミア・スリニヴァサン(2023)『セックスする権利』(山田文訳)

セックスについてフェミニズムの観点からさまざまなテーマを扱ったエッセイ集。認識論の専門家として知られる著者は、本書においてフェミニズムの歴史をふまえつつ、哲学の観点から日常の中のセックスをめぐる問題についてエッセイ形式で議論を展開している。本書を読んで疑問に思ったことがあれば、『フィルカル』vol. 8 no. 2で本書に関する特集が組まれているので、そこに収録された一連の論考が手がかりになるだろう。

本書は、認識的不正義に関する研究が盛り上がるきっかけとなった古典的著作の翻訳である。翻訳者の解説によれば、認識的不正義とは、証言や会話や議論などのさまざまな認識実践への不当の参加を妨げられることを意味する。例えば、誰かが女性であるという理由だけで発言を無視されたり、自らのアイデンティティを理解するための資源が制限されたりする場面で問われるのが、認識的不正義である。著者の議論はこうした現象について考えるためのさまざまな鋭い洞察を含んでおり、それは現在でも色褪せていない。最新の研究動向について知りたい人は翻訳者の解説が参考になるだろう。

  • 吉川孝(2023)『ブルーフィルムの哲学』

本書は、ポルノグラフィを題材とした映像作品の一種であるブルーフィルムについて、現象学の観点から考察した一冊である。著者は、高知でのブルーフィルムとの出会いを起点として、自らの経験にとどまり、そこから得られるさまざまなものの見方を言語化しようと試みている。また、「見てはいけない映画」を見るという欲求を肯定することで、既存の道徳あるいは法律によって禁じられている経験のありかをさまざまな視点から確保しようともしている。現象学の実践としても興味深く、本書を読むことで著者と共に哲学することができるようになっている点が秀逸である。

  • 源河亨(2023)『愛とラブソングの哲学』

本書は、ラブソングとは何かという問いについて、自然主義的な哲学の観点から考察を試みた一冊である。前半は愛の哲学的分析、後半はラブソングの楽曲に関する哲学的分析という構成になっており、最後の章にはevening cinemaの原田氏との対談が収録されている。平易な言葉で書かれており、ところどころ挿入される図表が理解の助けとなる。哲学だけでなく心理学や生物学や社会学などの知見も活かされていて、全体的に読み応えのある新書となっている。著者が翻訳に携わったセオドア・グレイシックの『音楽の哲学入門』を併読することで、本書の理解がより深まることだろう。

  • 三浦哲哉(2023)『自炊者になるための26週』

普段から自炊をしている身として大変面白く読んだ。著者によれば、料理という行為への動機は「風味の魅力」にあるという。風味の魅力に気づいたとき、人は自ずと「自炊者」になってしまっているのだ。本書には、読者を自炊者へと導く多くの工夫が散りばめられている。自炊はしばしば面倒であるという理由で避けられがちだが、本書はそのハードルをとことん下げてくれる。三食自炊のすすめを説いているわけでもなく、専門店やコンビニなどとの使い分けまで提案している(ちなみに、料理における「適量」問題にも一定の解決策を与えている)。本書を読み通せば、生活の中に自炊という行為を自然に取り込んでしまっている自分に気づくかもしれない。

  • 三木那由他(2023)『言葉の風景、哲学のレンズ』

『言葉の展望台』の続編として公刊された著者のエッセイ集であり、今回も色々と学ぶところの多い著作だった。本書を読むことで、読者は著者のレンズーー言語哲学者としての、そして、生身の人間としてのレンズーーを通した世界の相貌を垣間見ることができるだろう。個人的には、「ぐねぐねと進む」という章が興味深かった。そこで著者は高島鈴の『布団の中から蜂起せよ』という本から読み取った人生の中の「矛盾」について触れている。私たちは必ずしも合理的に日々の選択を行っているわけではなく、むしろさまざまな矛盾を抱えたまま理由なき決断を迫られているというのである。この見解は私にとっては魅力的に思われたが、皆さんはどう思われるだろうか。本書は他にも多くの視点を与えてくれるので、ぜひ一読してもらいたい。